新宿西口の歴史について  
 
 新宿西口商店街の歴史を語るのは、まず終戦直後までさかのぼる。
 それは昭和21年頃、戦後の焼け野原となった西口近辺は瓦礫の中で埋もれていた。
 その頃は、駅前に衣類品・靴・石鹸その他の日用雑貨売る露天商があり、おでん・ふかしいも・ゆであずき・天ぷら・海草の佃煮・古本を売る、よしず張りの屋台が三・四十軒並んでいた。
しかし、新宿復興祭が連日開かれていた12月暮れに火事があり屋台は全部消えていた。
 そこへ当局の要請もあった事で、テキ屋の親分、安田組の安田朝信氏が戸板一枚で区切った露店商のマーケットを作った。安田組が最初に作った統制経済時代の闇市「ラッキーストリート」である。当時の闇市は非合法で暗黙のうちに当局者が黙認した「合法的」なものであった。
 当時、戦争中に焼け出された家族が頼って逃げた親戚などの家が世田谷・杉並・練馬などにあった。戦争時でもこの地区の人口は一割程度しか減っていない。新宿はそんな地域からの交通の中継地点にあたり、人や物資の流通するターミナル機能をもっていた。
 人々は新宿に集まり、各店はおのおの商売を始めた。
昭和22年頃、統制品に対する取り締まりが厳しく、ラーメンや今川焼きに使ううどん粉等がそれにあたり商売は苦労した。統制品ではないものといえば、進駐軍の残飯や豚のモツ等である。
 その頃から、各店の多くはもつ焼き屋を始めるようになり、当時は盛況であった。現在、その名残もあり当商店街の二十数店舗はやきとり屋またはもつ焼き屋である。
 線路際の通り名が「やきとり横丁」というのも、その由来からもある。
 当時から現在まで受け継がれている点といえば、先述したとおりの戸板一枚で区切った造りである。
現在でも店舗と店舗の壁がくっついた造りになっている店舗が多い。先般の火事(平成11年11月24日)では、その構造が仇となり店舗の火災は横に拡がりあっという間に燃え広がった。
 昭和24年2月頃には、戦争以来禁止されていた飲食店が公認されて開店した。ただし、3月の経済調査庁の発表では、東京の飲食店三万軒の内一万軒が無許可のもぐり営業だという。
 昭和30年代に入るとやきとりキャバレーなどという店も現れた。この店では、客はやきとりで焼酎を飲むのだが、めかしたホステス達が接客サービスをするというもの。今考えると面白い光景だ。
 昭和34年頃になると営団線延長計画や、再開発によるターミナルビル建設等で、当時甲州街道から青梅街道まで連なっていた約三〇〇軒の店舗も、不法占拠という事で立ち退く事となり、現在のパレットビル(新宿西口会館)から青梅街道までの店舗が残った。当時はパレットビル(新宿西口会館)も無く、それは昭和38年頃に完成した。
 その後も、発展を続けてきた西口は現在の状態に至る。

 
参考文献:「新宿西口会館設立40週年記念誌」「やきとりや行進曲」




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